浄土寺コラム

浄土寺だより 第99号

≪己書 かんな道場代表 西田千佳氏作≫

「自分だけの書」という意味の己書。
筆ペンを使って文字を絵のように表現する書道です。
厳密なルールもないため、上手い下手もなく自由に筆を走らせ、素直に自分を表現できるのが魅力です。


生きてるだけで丸儲け

「念仏を称えれば救われる、ならば念仏を称えなければ救われないのか?」。ご門徒からの問いかけだが、そもそも念仏は、どのような状態から救ってくれるのだろう。


明石家さんまの娘さんの名前は「いまる」という。それは、先代の言葉、「生きてるだけでまる儲け」の「い」と「まる」をとって名づけられたという。その言葉を受けてか、さんまは、「人間生まれてきた時は裸。死ぬ時にパンツ一つはいていたら勝ちやないか」と語っている。


禅宗の「本来無一物ほんらいむいちもつ」は、本来、何一つ自らの所有物しょゆうぶつはないという教え。が、「もっと欲しい」とむさぼり、「これが足りない」といかり、「何でこうなるの」と愚痴ぐちをこぼす。他者と比べて勝った負けた、多い少ない等々、三毒(貪り・怒り・愚痴)に振り回され、落ち込んでしまうことはないだろうか。


そういう時は、落ちる所まで落ちればいい。すると、これ以上、落ちる所がない状態から、ただ一歩踏み出せばいいだけの本当の救いが既にあった。誰もが老病死する苦悩の身であればこそ、念仏を称える称えない以前に、究極のマイナス思考から最高のプラス思考へと転じていくその一歩を、ただあかし確かめるだけの念仏の声があったのだ。


本来、何一つ所有しょゆうせず裸で生まれてきた私であれば、現にパンツ一つだけではない。すでに色んな服を身につけ、食べ物や住む家があり、家族や友だちがいる。誰もが「生きてるだけで丸儲け」の既に救われている私を生きているのだ。


〝人〟との交わり、元気のもと   安吉町 惣田 吉隆

人知じんちを尽くして天命てんめいを待つ」ということばが気になっています。「精一杯に努力すれば、あとの結果は天命におまかせすればいい」という意味でしょうか。では、これまでの私自身を振り返り、「本当に人知を尽くしてきたか」と問われれば、正直に言って、疑わしいものです。


昔は、地区の中心として小さな店を開いていました。多くの人々が集い、地区の人々のあいさつが飛び交う場でした。また、学校帰りの子どもたちのたまり場になって、お菓子を食べジュースを飲みながら楽しいいこいの風景がそこにあったのです。ただ、大型スーパーの建設や車社会など、時代の変化にともない閉店を余儀よぎなくされました。 


また、しばらくですが、父親の養蜂業ようほうぎょうを継ぎました。朝早くから夜遅くまで蜜を採取さいしゅし、伝統の味を守ろうと私なりに必至ひっしでしたが、ミツバチの激減や環境の変化、そして私の力不足から、時代の変化についていけませんでした。
以前は配送業、今では新聞配達をして、体力が許す限り、それなりに地域に根づいて毎日をいそしんでいるつもりです。そこで出あい、声をかけあえる人々はありがたく、少しでも人のために頑張ろうという気持ちになれるのです。


若い頃は、剣道や太鼓たいこ没頭ぼっとうするかたわら、本当にお酒を飲みました。恥ずかしながら失敗談は数えきれません。


例えば、私は覚えていないのですが、近所の「あとふき」(結婚式の後、近所の人々でお祝いをする会)の時です。あまりにも時間が長かったので、家内が心配して迎えに来てくれました。何とか家にたどり着いたものの、飲み足りなかったのか、家の者の目を盗んで裏から抜け出し、気づけば再び〝ちょこん〟と宴席に座っていて周囲を驚かせたそうです。


また、お酒が入った時はカラオケがつきものです。気分良く歌って調子にのり過ぎ、スナックのママに迷惑をかけて叱られたこと度々。いくつもの失敗談から、私の酒の振る舞いは有名になり、ある時、タクシーの運ちゃんからは乗車を拒否される始末しまつ。家内には本当に迷惑ばかりかけて申し訳ない気持ちで一杯です。今では、お寺でお酒をたしなむことがありますが、そこで人と語り合い、いろんな話が聞けること、とてもうれしく思います。


さて、これまでを振り返っても、「人知を尽くして天命を待つ」、そんな高尚こうしょうな境地には到底いたっていません。そんな時、お寺の法話で、次のようなことばを聞きました。


「天命にやすんじて人知を尽くす」(清沢満之きよざわまんし


先ほどとさかさまです。よくわかりませんが、とにかく天命にお任せして、最後まで精一杯に努力していくしかないのでしょう。これまで社会福祉協議会の地区協力員として、人々とかかわり何することなく、ただ「元気か」、「大丈夫か」などと、人さまに声かけをしてきました。なぜなら〝人〟と交わること、それが私の元気のもとだからです。


「私が私である名のり」

~『教行信証』と現代(化身土・末巻②)~ 

今から二十七年程前になりますか、保育園児だった次男のもよおし会のときでした。当時のスーパーヒーローたちを想定して、自分は何になりたいかを言いながらポーズを決めます。「俺はウルトラマンだ」、「僕は仮面ライダーだ」、「私はセーラームンよ」等々、園児たちの名台詞めいぜりふが続きます。次男の番がきたとき、彼はおもむろに「俺は大窪無双(次男の実名)だ!」と言って周りを驚かせたそうです。単にうけをねらったのか、みんなと同調するのが嫌だったのかわかりませんが、その話を聞いて何だか共感を覚えたのです。周りに振り回されず、「本当の自分とは?」という問いかけから、「自分を名のるとは何か」を考えさせられた瞬間でした。


以前、県外の知り合いが、自らのせいの事情を告白して下さいました。現代における性の多様性(LGBTQ)において、その一つ、身体は男性でありながら女性を愛せないというものでした。彼は、小学生の頃から生きづらさを感じつつ、長い間、誰にも打ち明けられなかったのです。ただ、本当の自分を押し隠して生きることはとても苦しい。常識的な周りの目におくすることなく、自分らしく正直に生きたいという思いから、「私はゲイである」とカミングアウトされたのです。性的指向の問題だけではなく、精神的な疾患者やいじめを受けてきた人などによるカミングアウトは、とても勇気のいることです。周りから違う目でみられたり、時には他人から排除されてしまうことがあるかもしれません。しかしそこには、自分らしさを保持するために勇気をもって立ち上がっていくすがたがあるのです。


親鸞は、「愚禿釈ぐとくしゃくらん」という名のりにおいて、「雑行ぞうぎょうてて本願ほんがんす」と宣言されました。当時、「ただ念仏を称える」ことを標榜ひょうぼうする法然門下たちは、ただ念仏の救いをとなえただけで、南都なんと北嶺ほくれい(奈良や比叡山など)の僧侶たちの弾圧にあい、国家公認の僧籍そうせき剥奪はくだつされました。親鸞も同様、僧籍を奪われたことによって、逆に一人の人間として何をより処にして生きるのかが明確に定まったのだと思います。その結果、たとえ国家と対峙たいじ流罪るざいにあおうが、肩書きや地位・名声などにこだわる雑行をすてて、自分の奥底に眠っている本当の願いに応えていく、その念仏の名のりがあるのです。


カミングアウトと名のりとは、微妙な違いはあるにしろ、他人が何を言おうが「私は自分に正直に生きます」と言う点では同じです。自分に正直であればこそ、一人ひとりの個性を尊重し、違いを超えた共存が生まれるのだと思います。逆に正直な気持ちを隠し、他人に同調して流されることは、皆が同じ色に染まって自分を失うことです。本来の自分を取り戻すための名のり、お互いの違いを尊重し敬うことで、違いを超えて一つになっていく浄土の世界が願われているのです。


編集後記

昨年、たくさんの方から「太ったね」と言われた家内。「どうしたら痩せられるんやろ?」と、隣でお菓子を食べながら考え込む。


人間関係をはじめ、思い通りにならない娑婆しゃば世界において、「どうしたら?」、「何をすれば?」、「どんな方法で?」という解答をついつい神仏に求めてしまう。


でも、阿弥陀さんに手を合わせると聞こえてくる。「お前たちは、いつも考え込んで坐ってばかり……。俺なんか永遠に今でも立ち続けているんだぜ!」と。
お菓子を食べていた家内が立ち上がった。「よし! とりあえず掃除をして、体、動かそ……」。