≪あるお晨朝の様子≫
毎朝午前7時半より、お経があがります。あっくんのお嫁ちゃんは、毎朝お経をいただき手を合わせながらも、中座して出勤します。お休みの時は、みんなで『正信偈』と勤めます。前日から来ていた外孫も、手を合わせてくれます。

和の中に響く、わたしの声
月参りでご門徒が呟いた。「毎日が同じ事のくり返し。自分の存在意義がわからず、生きている実感がない」。大半を家で過ごし、他人と接する機会がもてないという。そんな時、共に「正信偈」を唱えるお参りは何を教えてくれるのだろう。
当寺の晨朝(毎朝のお参り)で「正信偈」を唱和する。近頃、坊守の声が少しズレているのが気になり「周りの声が聞こえている?」とずねてみた。すると「やっぱり合っていないか」という返事。お寺ヨガ教室のお勤めで、彼女が導師を任され、妙に気負っていたのか。声を張り上げ、周りを導こうとする自意識が、その場の〝和〟を乱していたのだろう。
浄土真宗における声明とは、きれいな声で、誰よりも上手に唱えることではない。導師の発声のもと、浄土の荘厳を前に、お互いの声が不協和音であっても溶けこみ、自分の声が分からなくなることを理想とする。それは、自分の声が消えて無くなるのではなく、また見失うのでもない。「一切即一」・「一即一切」(『華厳経』)の如く、全体の声が、そのまま私ひとりの声となり、私ひとりの声が、全体の中において、かけがえのない存在となって響くことなのだ。
自らの存在意義とは、誰よりも目立ったり、能力的に秀でることによって得られるのではない。たとえ毎日が同じ事のくり返しであっても、時には煩雑な人間関係の中に溶けこみ、そこにある悩み、戸惑い、悲しみを共有する〝和〟の中に、この私が生きているという実感を頂くのだろう
~母の「なんまんだぶつ」雑感~ 吉田町 中垣 彰
この春先に九十二歳で母が生涯を閉じました。
母とご縁があって五十年余。その印象といえば、晩年はお念仏の人、若かりし頃は、働くことを苦にしない頑張り屋でした。何事にも一生懸命で、農作業のほか日稼ぎ仕事にも勤しみ、仲間を大事にしながら仕事を競うことも楽しみの一つ。心優しくもあり団らんを一番の楽しみにして、私には人生のお手本のような人でした。
隠居後は畑作の世話。近所のばあちゃん達との駄弁り、家では朝夕の勤行等、平凡な一日を過ごしていました。特に晩年は、周りすべてがお念仏の対象となり、生家、白山さんの方角、毎度の食事の一品毎、果ては畑で駆除する虫にまで、四方、「なんまんだぶつ」での感謝の身でした。
そんな母でも近所のばあちゃん達との話の中で、「年寄りは、やっぱりお金を持っとらんと。ほけほけと若い衆に全部出したらダメや。途端に粗末扱いされる」とか、「孫に結婚祝い、でかと(たくさん)やったけど、式には声もかからんだ」等々、聞いてきた他人話に同情すること力を込めることやら、「どくしょな(情けない)話や……」と。とにかく人の粗末扱いを嫌がりました。そんな母に私が、「仏さんの心から、お金なんて早よ出して楽になれと言うとらんか?」と茶々を入れると、母はキョトンとしながらも「アッカンベー」の仕草。私も負けじと「アッカンベー」。これまた場をなごませる団らんの一コマでもありました。
ある晩年の夕食時、母が「あんた等の話を聞いとると楽しい。寝床に行きたくない」と寂しくもはっきり言う。団らんの場を離れることに無性の寂しさを感じたのでしょうか。何も着飾らず、自分の素直な気持ちを出せるその時こそが、お念仏のご信心をいただくことなのかなと、複雑な気持ちの中にも心温まる一コマとなりました。
私たちは、この世に「生」というご縁をいただき、いずれその「生」を閉じなければなりません。その間は、本願のお力に支えられながらも、生きることに執着しなければなりません。私自身、邪見によってついつい奢ってしまう悪衆生なのです。その執着する波動が喜びや生き甲斐となって現れます。これら執着と生き甲斐が織り重なるのが人生(業)だと思います。「ご縁に生かされる自分」と「この世に生きる自分」を知ることこそが、真宗の教証、「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」であると味わっております。
母はお念仏を通し、自然にこの事に気付かされたのです。素晴らしい後生(遺族に残した人生)だったと思います。「袖振り合うも多生の縁」とも言いますので、いずれかの前世からの多生の因縁、いわば折に触れ母と再びお会いできる瞬間もあると思います。母が称えた「なんまんだぶつ」、いま我家に所狭しと響き廻向しております。大切にしたいと思う今日この頃です。
真理は一つ、ただ念仏を唯一の手だてとして」
~『教行信証』と現代(化身土・末巻➀)~
ある方が言われました。「人間は、宗教や信仰心をもってしまうから争いが絶えないのではないですか?」。確かに「私は~教を信じます」、「あなたは~を信じている」等と、それぞれの信仰心をもとに正義と正論を振りかざし、結果的に宗教が絡んだ領土の争いは、今も昔も変わりません。ならば浄土真宗の〝ただ念仏〟という、阿弥陀仏をご本尊とする信仰も、争いの一因になるのでしょうか。
あるご門徒のお仏壇の中には、いくつかの仏像や神社のお守りが納められています。以前、私が「この仏像は何?」と聞くと、「病気を治すために親友から頂いた仏さんです」との答え。「このお守りは何?」。「孫の合格祈願のために祖母が購入したものです」と。「この仏さんは?」、「私が入会している宗教の…」等々。私が「このお内仏の中には、いろんな仏様と神様が混在されているのですね」と言うと、「一つにこだわらなくていいじゃない、いろんな仏様や神様にお参りしたら、たくさんのご利益があるかもしれない」と笑顔で返答されました。しかし、複数の対象を信仰するということは、この私を基準にした現世利益、いわば私への見返りを求めていることであり、それは迷いのすがたを現しているのだと思います。
現在伝わっている最も古い経典(『スッタニパータ』)に次のような言葉があります。
「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。」
(『ブッダのことば』岩波文庫)
念仏を称えるという仏教は、この私がその念仏を信じているから称えるのではありません。すでに在る三世・十方に貫く真理、即ちすべての人々が共有し共感する一つの真理からの呼び声に対して、ただ念仏を称えるという〝手だて〟によって応えていくことです。一つの真理から人類の一人ひとりに届けようとするメッセージ、その呼び声だけに応える〝ただ念仏〟によって、さまざまな国や民族、信仰や宗教をこえて、「人」としてだれもが懺悔し、讃嘆し合うことによって共鳴することが浄土真宗の宗教です。それは決して、「病気平癒」「合格祈願」「除災招福」等々、現世利益の自分だけの都合に合わせる信仰ではありません。だれもが老病死する身として、深い悲しみの中でこそ共有・共感する真理をもとに、尊いものに目覚め、教えや人に出あう無上の喜びによって救われていく宗教です。
私が信じる念仏であれ信仰であれば、自分の都合によって争いが生まれるかもしれません。しかし、既に完成されている一つの真理、いわば浄土からの呼び声に応える念仏は、お互いの違いをこえて尊重し合うと同時に、浄土の相手を慈しむ心から、時には「違うものは違う」、「おかしいものはおかしい」と、きちんと相手に対応できる宗教でもあるのです。
編集後記
報恩講の日が近づくと、家中がピリピリする。掃除や草むしり、ご門徒へのお願い等、やることにきりがない。
本来、日頃の恩に報いる最も大切な仏事であるにもかかわらず、皆の表情が暗くなる。あっくんが「また報恩講のシーズンやな」と、何だか冴えない表情。連れ合いが「お斉、どうしよう」と困った顔をする。
私が「皆、暗い顔するな! 今年も報恩講を迎えられる喜びを一緒に味わう」と檄を飛ばす。さぁ~、草むしりを始めようとした瞬間、思わず「あ~ぁ」とため息をついた…。