浄土寺コラム

浄土寺だより 第97号

≪須弥壇搬出の様子≫

珠洲のあるお寺では、能登半島大地震で被災した本堂から、ご本尊の須弥壇しゅみだんが、ボランティアの方たちの力を借りて運び出されました。


神も仏もない、その先に

能登の被災地で、倒壊した家から先ず仏壇のご本尊を救い出し、皆が涙を流し合掌する姿があった。一人が言う。「仏様から頂いた命、もう少し生きて念仏を後世に伝えたい」と。


能登地震からはや一年半。未だ復興の見通しがたたない中で、「地震さえなければ……」「何でわしらだけが……」等とどうしても愚痴がこぼれてくる。昨年の九月の大洪水では、皆の気持ちを代弁するが如く、ある方の言葉が耳に突いた。「踏んだり蹴ったり、心が折れる。神も仏もない」。神や仏とは何か、その存在について改めて考えさせられた。


仏弟子・阿難は、釈尊が入滅にゅうめつする姿を目の当たりにして、しくしく木陰こかげで泣きながら深く悲しんだ。これまで、永遠に法を説いてくれる釈尊を思い描いていたのか。そんな思い込みが破られる絶望の中で、阿難自身が法のともしびを担い、座より立ち上がっていく姿があった。その瞬間彼は、「光顔巍々こうげんぎぎ」、釈尊のお顔の輝きの背景にまさしく阿弥陀仏を見たのだ。


「神も仏もない」、願いを叶えてくれる〝神〟、また苦しみのない処へ導いてくれる〝仏〟、そんな都合のいい存在が単なる〝虚構きょこう〟だと知らされる時、被災者自らが厳しい現実をにない、立ち上がっていかざるを得ない姿がそこにあった。


深い悲しみが念仏の声となって届き、本当に大事なものを後世に伝えようと立ち上がる時、被災者の一人が見たものは、自らの妄想によって描く神や仏ではなく、絶望の中にも一筋の希望の光を象徴するご本尊だったのだろう。


家訓「浄土真宗を守ること」   小松市 森 康修

私の家には、亡父ぼうふが残してくれた家訓があります。亡くなる二年前に作った家訓は、がくに入れて三十年間掛けてあります。家訓は二ヶ条あり、その一つは、「浄土真宗を守ること」です。生前の父は、それほど信心深い人だと思っていませんでしたが、とても思慮深い人でしたから、二ヶ条の一つが、「浄土真宗を守ること」であることは深い意味があるはずだ、と思うようになって参りました。


家訓を特に意識しだしたのは、本年亡母ぼうぼの三回忌の法要をさせて頂いてからです。しかし、浄土真宗の中身を意識しだしても、何も知らないことに気づき、最近になってご住職に初歩的な質問をメールでお送りし、教えて頂いております。その中から、三つの問答を通して、私自身が暗中模索している現状をご紹介させて頂きます。


一、「祈る」ことと、「念仏を称えること」は同じか?
ご住職の回答は、「祈るとは、自分が神仏にお願いすることであるのに対して、念仏を称えることは、自分と同時に他者への救いへと転じる。それは全ての人々と共に救われるという、他力の仏様の願いに応えること」というお話でした。これまで私は、仏壇に対しても神棚に対しても、同じく家族の無事などを祈念して参りましたが、ご住職のお答えは、正直申し上げて、私には及びも付かないことであり、益々理解が遠のいてしまったと感じております。

二、「ただ念仏」の「ただ」とはどういうことですか?
「ただ」とは、「何ごとにもこだわらない」というお答えでした。しかし、坐禅を組んで「無」の世界に入る修行なら可能性はゼロではないかもしれませんが、仏壇の前の数度の念仏で、「ただ」の心境に入るのは無理だと申し上げました。すると即、「無理なことだと座り込んでしまうのではなく、無理な私だからこそ、仏様やご先祖に見守られ、いつでもどこでも、念仏一つにこだわり続ける中で、こだわらない境地に近づいていくこと」と教えて頂いておりますが、難解です。


三、「浄土」とは、「天国」ですか?
お答えは、「浄土とは、夢のユートピアのような実体的な存在ではなく、仏の物語を通して、私たちの現実の世界を照らし出すはたらきである」ということでした。私は、「念仏を称えれば、死んだら浄土=天国へ往(い)ける」と思い込んでいましたが、それは大きな誤解でした。念仏を称えることによって、既に浄土へ往くことが約束されており、それ故、この世で生きながら念仏の生活を実践することで、自分の生きる世界が少しずつ他者と呼応する浄土へと転じていく、そんな報恩感謝の生涯を貫くことが本当の救いだと教えられております。


以上が、最近ご住職によって、教えられていることですが、子どもの頃から親しみ、法名まで頂きながら、まだ浄土真宗の門前にも立っていなかったことに、今頃になり気づかされたのも、亡父の家訓のお陰だと感謝しております。


『阿弥陀経』の物語(Ⅶ)「浄土往生とは ~三願転入・三種の往生~」

『教行信証』と現代(化身土巻⑬)

「念仏を称えれば救われる、では念仏を称えなければ救われない?」。あるご門徒が、「他の宗教や宗派と比べて、浄土真宗はなぜ念仏だけにこだわるのか、それがなぜ国家や宗派をこえた普遍宗教につながるのか?」と素直に問いかけました。


私たちは、それぞれの価値観にもとづいて自分が描いた救いを追い求めようとします。「家族の為に財産を築き上げて裕福な生活を送りたい」、「社会の為に地位や名誉を得て皆に尊敬されるようになりたい」等々、それは大事なことです。が、自分の価値観によって思い描く救いは、避けられない四苦八苦と向き合わざるを得ない状況において、時には音をたてて崩れ去っていくものだと思います。


よくあるお話です。定年を迎えた方が、家族や会社の為に懸命に頑張ってきたのに、妻から三行半みくだりはんを下されました。言われたのは、「私が子育てで本当に辛かった時、あなたはそばにいてくれなかった」と。要はかたくなに〝〟を張る余り、目の前の人の心の痛みさえ気づけなかったのです。そういう私も然り。以前、嫁の友だちに言われました。「朋(妻の名前)が子育てや義両親との関係で本当に苦しかった時、住職はいつも外にいたよね」。私はドキッとしました。自分は外で頑張っているから大丈夫、間違いない。そんな正論をかざし自己満足する心のふさがった状態では、周りの声は聞こえてこないのでしょう。


ただ、誰もが救いを求める時、先ず自らの価値観にもとづいて模索することからしか始まりません。それ故、仏さまは、そんな私たちを暫定的ざんていてきに仮門として受け入れます。その仮門は真実へと導く為の入り口である以上、そこにとどまっているわけにはいきません。仏さまは、仮門から真実へと導くために、真実への扉、いわば真門に入らしめる〝手だて〟(方便)として念仏を称えることを勧めるのです。さらにその念仏は、真門をでさせて、終極的にすべての人々が共有する真実へと誘導していくのです。いわば仮門から真門へ、真門から真実へという釈尊の方便としての意図がはたらいているのです。


それ故に念仏とは、念仏を称えることそのものが目的ではありません。念仏は、私たちを真実へと導いていくために仏さまが設けた絶対不可欠の〝手だて〟に他なりません。他の宗教や宗派において、真実へと導いていく〝手だて〟は異なっても、最終的に救われるべき真実は一つです。それを親鸞は本願の海と表現しました。いわばすべての人々のどんな人生をも受け入れ、報恩感謝の一味いちみに転じていく不思議な海です。一人ひとり立場は異なっても、これまで生きてきたご恩に報い素直に感謝できる人生は、民族や国家、宗教や宗派を超えて、あらゆる人々と共有・共感できるのです。そういう真実へと導かれる救いの為に、浄土真宗は、南無阿弥陀仏の名号を唯一無二の〝手だて〟としておのずと伝わってきたのです。


編集後記

裏庭で遊んでいた孫が、梅の実を拾ってきた。どこにあったのか聞くと、ずっと奥の物陰だった。普段掃除していても、部屋から見えない処は手を抜いてしまうので気付かなかった。


梅の実を眺めながら、〝婆ちゃん梅干し上手やったなあ〟、〝爺ちゃん、実のなる木は庭に植えたがらなかったのに、いつの間に植えたんやろ〟と思いを馳せる。


孫が拾ってきた、爺ちゃん婆ちゃんからのメッセージに促されて、今年は梅干しに初挑戦だ!