浄土寺コラム

3)なぜ善人でなく悪人が救われるのか

前回に引き続き、ご門徒の疑問に応えたいと思います。

「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世の人つねにいわく、悪人なお往生す、  いかにいわんや善人をや」(『歎異抄』第3条)。善人ですら往生(仏に成る道が開かれること)できるのだから悪人はなおさら往生できます。しかし、世の中の人は、その逆で、悪人が救われるのなら善人はなおさら救われると。一体どういうことでしょうか。

まず押さえてほしいのは、ここで言われる悪人とは、殺人・強盗、暴行・傷害、窃盗・詐欺等々、現代の法律を犯し、社会に迷惑をかけるような犯罪者を指しているのではありません。ここで言われる親鸞の悪人とは、わが心の中に潜む悪性の自覚です。外面は善人の顔をして繕い誤魔化しても、仏さんの光に照らされた内面のこころはどうでしょうか? きれいごとは何でも言えますが、実際は貪り、怒り、愚痴のこころに満ちていませんか。本来、あらゆる人々とつながっている私たちですが、こころの内に潜む分別心(何でも比べたり分けたりする心)によって、損か得か、上か下か、勝ったか負けたか、役に立つか立たないか等々、結果的に自らの都合で他人を排除してしまうことはないですか。親鸞は、そんな自らの内に潜む悪人の自覚こそ、いわば自らの過ちに気づくこと(帰依仏)によって、どこまでも教えるのではなく教えられる立場になり(帰依法)、深い悲しみを通して誰一人隔たりなく人と共感する(帰依僧)、いわば帰依三宝の称名念仏による浄土往生の道が開かれるというのです。

善人とは、自分の正論・正義をふりかざすような人です。自分で答えを握りしめている人であり、頑なに固持して、結果的に自分の正論・正義を握る拳で他人を傷つけてしまうことがあるのです。よく言われるように、人と人との争いは、正義と正義、正論と正論、善人意識と善人意識とのぶつかりあいです。どれも自分の思い込みの中で描いた正義、正論です。「私って善い人でしょ」という思い込みほど恐いものはありません。なぜならそんな善人意識は、自らの誤りに気づくことなく、相手を受け入れ認めることはないからです。そんな拳を上げた状態では、他人から教えられることはなく、人と共感することはありません。

私たちは、善人になろうと思って頑張っています。しかし、そのこころの根っこはあまり見えてきません。仏の前に手を合わさなければ見えてこない本当の私のすがたです。親鸞は「どれだけ善行を積んでもそれは、嘘偽りの行に過ぎない」、「自らの悪性はととまることはない、こころは蛇やさそりのようなものだ」と自らを悲嘆述懐されています。そんな柔軟なこころの自覚にこそ、阿弥陀仏の「あなたを絶対に捨てない」という声が聞こえてくると同時に、聞こえる念仏の声を拠り所にして、どん底から一歩でもら這い上がる歩みこそが浄土への往生の道であると説いているのです。