浄土寺コラム

2)念仏の救いについて

ご門徒から聞かれました。先代が残された家訓には、浄土真宗を引き継いでいくことがうたわれています。その家のご主人は、真宗の教えについてかねてから疑問があると言うのです。一つは、「念仏を称えれば救われる」ということがわからない。もう一つは「善人ではなく悪人こそが救われる」ということが納得できないというものでした。今回は「念仏を称えれば救われる」ということについて、その一端をお応えしたいと思います。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローは人間の欲求について五段階を示しています。

➀生理的欲求(食欲・睡眠欲等)、②安全欲求(健康で元気に過ごしたい等)、③承認欲求(名声や地位を得る等)、④所属と愛の欲求(自分が社会から必要とされている、周りから愛されたい等)、⑤自己実現欲求(自分らしさ等)

これらの欲求に対応して人間の救いについて考えてみます。少し無理があるかもしれませんが、お許し下さい。例えば、三日間、何も食事をとれない状況下で、何とか食事にありつけた、そういう救いがあります(マズラー➀)。危ない状況下で無事に救出された場合、そいう救いがあります(マズラー②)。そして、目指していた地位に到達した、名声を手に入れたことによって何か救われたということもあるでしょう(マズラー③)。でもそれらは(➀~③)、外的な条件が満たされたことによるもので、単に一時的な願いがかなうという不安定な救いだと思います。仏教は、老病死を代表するように、生死を貫くという、いわば死と向き合う中で見えてくる生(生まれたこと)の救いを言います。

具体的に仏教(念仏)の救いとはどういうことでしょうか。皆さんは、今のこのままの自分を素直に受け入れられますか? 常に他人と比べて「もっともっと」「たりんたりん」「ダメやダメや」と言って、自らの劣っているところにコンプレックスをいだき、無意識の内に自分を否定して排除しているということはないですか? 仏教の救いは、「摂取不捨」(あなたを摂めとって捨てない)という深い内面的なこころの救いです。なかなかその救いに至れない私、すなわち自分が自分を捨てているという深層心理に至れないい私であれば、仏さんはそこに至るまでに二つの暫定的な救いを設けました。一つは、自分が生涯かけて懸命に頑張ってきたことが臨終のときに報われるという救いです。ほとんどの人はこの救いにとどまるかと思います。二つは、自らの深い罪の意識から臨終のときに解放されるという救いです。深い懺悔心をいだくとともに、自らが矛盾・葛藤しながらも歩んでいくすがたがあります。ただ、仏さんには、最終的にこの二つの救いにとどまってほしくないという本当の願いが隠されているのです。すなわち、ただ念仏を称える私になると同時に、その念仏の一声の中に、仏(目覚め)・法(教え)・僧(共感)の三つの宝に帰依することによって、浄土に往生するというものです。

頑張ったことが報われた(マズラー④)といっても、それは所詮、自己満足のせまい世界に過ぎません。誰もが老病死する身としていずれは頑張れなくなります。仏さんは頑張ることを否定しているのではなく、頑張った(頑なに我を張る)ばかりに他者を傷つけて、悲しみや喜びを周りの人々と共感できず人と出あえないことを憂いています。

また、罪の意識から解放されたといっても、他者との共感がなければ、ドロドロとした人間関係、さまざまな社会の問題の中を立ち上がって歩むことなく、結局は自己完結、自己満足の私らしさ(マズラー⑤)に埋没してしまうことがあります。仏さんが本当に願うこととは、常日頃から握りしめている手を解き放し掌を合わせる(帰依仏)ことによって、人に教えるのではなくどこまでも教えられる身となり(帰依法)、誰一人隔てなく人と共感していく(帰依僧)広く深い世界、お互いのこころが響き合う浄土に向かって生きていくことです。具体的には、「ごめんね」と「ありがとう」との言葉が念仏の声となって響き合える人間関係の中にあって、現実に流されるのではなく抗うのでもない、目の前の問題を先送りせず、思い通りにならない娑婆世界にひとり立ち尽くす自立した生き方です。その生き方、生き様が、念仏の声となって、いのち尽きた後も、家族や有縁の人々にバトンを渡すことができるという救いです。

念仏を称えることは一瞬です。それと同時に、大事なことに目覚める(自らの誤りに気づく)帰依仏も一瞬、教え・ことばが響いてくる帰依法も一瞬、深い悲しみ(自分の思い通りにならない)の中で他者と共感していく帰依僧も一瞬です。そんな一瞬、一息、一声の念仏の中にある帰依三宝によって、最終的には私らしさという私をもこえて(マズラー⑥)、「お前はお前でそれでいいのだ」(天才バカボンの声の原点)という、浄土の仏さんからの声を聞いていくことが本当の救いなのです。