浄土寺コラム

浄土寺だより 第94号

《お地蔵さんの版画》
(故・谷内正遠氏作)

お地蔵さんは、人々の苦しみを慈悲の心で包み込んで救うとされる菩薩。だから見ているだけでほっこりするんですね。


「虚しさの根っこにあるもの」

独り暮らしのおばあちゃん。「いずれ身体が動けなくなったら施設に入らなければ……」と寂しげに云う。本当は最期まで家に居たい、でも家族に迷惑をかけたくない、そんな矛盾・葛藤する中で、彼女は一体何を願うのだろう。

あるご門徒のおじいちゃんが家族から懇願された。「頼む!施設のサービスを受けてくれ」と。最初は怒りを覚えたが、「あの言葉は、家の事情を考えて、わしを信頼して云ってくれたのかな」とふと思ったという。ただその一方で、「施設が終の棲家になるのが虚しい」とつぶやいたそうだ。

人間の虚しさの根っこにあるものとは何だろう? 誰もが独り 死する身において、その悲しみの中にこそ尊い教えに出あい、他者との温もりの中で虚しさを乗りこえていった念仏者の足跡がある。それ故、人間の虚しさとは、独り死んでいくことそのものではない。人間の虚しさとは、本当の自分を繕い覆い隠すことによって、深い悲しみの中でこそ響いてくる尊い教えに出あえず、他者(諸仏)からの“願い”に応えられない孤独にあるのだと思う。

 本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき(親鸞)

施設へ入ろうが、家で介護を受けようが、独り死んでいく身の事実に変りはない。だからこそ、尊い教えに導かれ、家族や親友をはじめ、他者の〝願い〟に応えて死に切る力がある。それは本来、本当の私の“願い”であり、弥陀の本願力となって誰にでも具わっていることを思い起こしてほしい。


能登の悲しみの中で  当寺若院 釈阿薫

これまでは、「人とのつながり」、「笑顔が戻りつつある今」というテーマで被災者の様子をお伝えしてきました。未だ状況は厳しいですが、それでも前向きに生きる人々から教えられたことを最後にお伝えしたいと思います。

現地に行くと、度々「震災がなければ…」という声が聞こえてきます。すると周りは重い雰囲気になり、みんなが黙り込むのです。しかし、その一方で、「私は地震のせいでという生き方をしたくない」との声も聞こえます。とても辛い胸中でありながら、少しでも前を向こうとする姿に、こちらが勇気をもらいます。

少しずつ余裕ができつつある中で、九月の大雨災害がありました。珠洲へボランティア活動に行きましたが、家は泥だらけで、外は砂埃と泥の臭いが充満していました。ある被災者が言いました。「踏んだり蹴ったり、心が折れる。神も仏もない」と。私は僧侶でありながらも、かける言葉は何一つ見つかりませんでした。このような方たちに、念仏の教えはどう響いてくるのでしょうか。

目の前で苦しんでいる人に「念仏を称えて下さい、苦しみが無くなりますよ」と言えるわけではありません。ただ、被災者と何度も触れる中で、「神も仏もない」という絶望の境地から見えてくる“お陰様”の中に、本当の仏様がおられるのではないかと教えられました。

これまでの炊き出しにおいて、何度か居酒屋もどきの場を設けました。そこはたくさんの方で賑わい様々な会話が飛び交います。「地震さえなければ…」「何でわしらだけが…」「本当に辛かったなぁ~」等々、お互いに素直な感情を吐露します。そんな中、一人の被災者が私らに向けて言いました。「地震がなければ、あんたたちと出あわんかった。お陰で、こんな美味しい炊き出しを食べれたし、何よりみんなの日頃の話や想いを聞けたわ。本当にご縁や」。

それは、「地震があったお陰で良いことがあった」という短絡的な話ではありません。悲しみのどん底にありながらも、少しでも前へ進もうとする被災者の姿です。悲しいことを除いてくれる自分に都合のいい「神や仏」に頼るのではなく、悲しみの中にこそ触れる人との温もりの中に、仏様からの頂きもの(ご縁)として必死に現実を受け止め、微かな希望を見出そうとする姿だと思います。

 円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳となす正智(親鸞)

南無阿弥陀仏の名号は、本当に辛くて苦しい「悪」であっても、人の温もりやことばに出あわせる「徳」となる智慧(真実・仏様からの一筋の希望の光)だと言うのです。

家族を亡くされた方や、家を失った方にとっては、親鸞のことばは、まだまだ空論に過ぎません。それでも能登の悲しみの中で、能登に響き渡る念仏の声に導かれ、少しでも被災者の皆さんに寄り添い続けたいと思います。合掌


『阿弥陀経』の物語(Ⅱ)「真実難信の法なり」

―『教行信証』と現代(化身土巻⑨)―

以前、災いが続いたことで、不平・不満の絶えないご門徒が言い放ちました。「何一つ良いことがない。神も仏もあるもんか。念仏なんてクソくらえや!」と。この方にとって念仏とは、一体どういうものだったのでしょうか。

私たちは、娑婆世界(苦しみを耐え忍ぶ場所という意味)に身を置いています。何ごともなく当たり前のように明日がやって来る、またいつまでも若く健康で、長生きできれば良いのでしょうが、「真逆」の坂はいつおとずれるかわかりません。深刻な病魔の宣告、愛しい人との別れ、自然災害による日常生活の崩壊等々、深い苦しみ悲しみが重い心の傷となって一生担っていかざるを得ないことがあるのでしょう。ただ、そんな時に「もう何も信じられない!」と言って、「信じてきたものが何だったのか」、「頼りにしてきたものが何のあてにもならない」等々、これまで自分が信じてきたその中身を確かめざるを得ない「難信の法」(自力で信じきることができない教え)に触れることがあるのではないでしょうか。

『阿弥陀経』の中の終始一貫して黙っている舎利弗は、釈尊のただ念仏の教えと対峙することにより、自ら信じてきたものが、また頼りにしてきたものが、砂上の楼閣の如く静かに壊れていったすがたをあらわします。自分勝手な偏見や先入観によって縛られていた心の闇に一筋の光がさすことによって、どこまでも教えを請う身になり、他者の声が呼応する念仏の響きとなって舎利弗にとどいたのです。それはまた、その念仏を信じても信じ切れない、逆に疑っても疑いきれないという矛盾と葛藤する舎利弗が、終始無言というすがたとなってあらわされているのです。

念仏を信じるといっても「有見」(常見)、念仏を信じないといっても「無見」(断見)で、どちらも両極端による偏った見方にすぎません。要は自力の分別・判断をこえて、矛盾・葛藤しながらも、そのままの私を受け入れて下さる絶対他力の信心に帰入せざるを得ないのです。どんな川の水も終極的に海に帰入し一つの味になるが如く、老若男女を問わず、有名な人もそうでない人も、平等なる一つの世界に受け入れられるという念仏です。

あのご門徒の言葉の背景には、自らの都合で何でも〝あて〟にする姿が映し出されます。いわば念仏を称えても、悪い状況が好転するわけではなく、難問が解決するわけではない。だからこそ降りかかる苦しみは自身で受け入れていかざるを得ない決断と覚悟によって、自力を“あて”にする念仏から絶対他力の念仏へと身も心も導かれていくことです。具体的にそれは、「神も仏もない」「念仏なんてクソくらえや!」等と半ば投げやりになる「何で私だけが!」「何でこんな目に遭うの…」という狭い世界から、自らの苦しみを他者のために活かし、そしてご恩に報いる広い世界へと転じる始まりなのです。


編集後記

前回に引き続き交通事故の話。先日、息子あっくんの過失によって相手方に多大な迷惑をかけた。幸いお互い大けがには至らなかったが、一つ間違えれば……。その原因は、あっくんが一旦停止を怠ったこと。前回も、町内でその罰則を受けたところだった。

相手は真っ直ぐ行くだろう、また止まってくれるだろう。そんな身勝手な「だろう」運転が、事故につながった。きちんと一旦停止をしていれば、視界が広がり、相手の動きをしっかりと見極め、適切な対応ができたはず。彼には、車の一旦停止と同様、人生の一旦停止の習慣を心がけてほしい。