《芽が出たよ》
昨年の暮れに孫とチューリップの球根を埋めました。雪解けの頃に芽吹いたようです。一緒に蒔いた菜っ葉の種からはまだ芽は出ませんが、もう少ししたら、ひょっこり顔を出してくれるかもしれませんね。

念仏の種を蒔く
農業に一区切りつけた方と話をした。「今から何がしたい?」という問いに、「よくわからんけど、色んな種を蒔きたい」という返事。それは、その種が、自分の生きた証として芽吹き、いつまでも残ってほしいという願望に見えた。
三歳になる孫は、色んな種に興味を持っている。先日、お寺の一角の荒地を花壇にして家庭菜園を試みた。だが、日当たりが悪く、栄養分が足りない痩せた土だからか、なかなか結果がでず、いまだ皆の笑顔は見られていない。
さて、〝生〟の営みは、種が芽吹き、花が咲き、実が成って再び種を残すという自然のサイクルである。それを人間に準える時、この私は一体どんな土壌に実を結ぶのだろう。自然の恩恵を忘れ、他人の温もりや潤いに意を閉ざし、頑なになったこころの土壌では、その実りは結ばれない。
たとえ欲望が渦巻く荒地(娑婆)でも、光・水・風という浄土からの慈悲を共有する穢土であれば、一人ひとりの喜びや憂い、後悔や意の痛みまでもが肥沃な土壌を培うための肥やしとなってその心根に染みこんでいく。そんな穢土にこそ念仏の種は芽吹き、この私にしかない実りを結ぶのだ。
今から念仏の種を蒔いてほしい。それが、名号を称える声となり、自他ともに生涯を尽くしていく道が開かれる。すぐに結果がでなくても、念仏を称え続ける道のりは、いつかどこかで実を結び、有縁の人々にいく度となく笑顔を届けることができるのだろう。
我も六字の中にこそ 若宮町 相木 昱代
お里は安吉町です。九人姉弟の末っ子に産まれました。親への追慕の念は歳を重ねるごとに深まり、今では感謝してもしきれません。
学校の給食調理員として四十年ほど働いてきました。気がつけばもう八十歳、でも未だ八十歳。「出来ることよりも出来ないことの方が増えてきたなぁ~」と思う反面、「やれることはやる、やるっきゃない!」という心境です。
今でも調理員としてお手伝いをしていますが、飽食の時代なのか、給食の残物は避けられません。学校側は生徒さんに、「残さず食べなさい」とは言えない事情があります。昔では考えられない食品ロスの問題が気がかりです。
そんな時代のギャップを感じつつ、人それぞれの価値観のギャップも痛感してきました。友や夫との関係も然り。私には相手の価値観を認める余裕はありませんでした。 以前、ある方に、役立ててほしいと新品のタオルを渡しました。すると「ありがとう、これ雑巾にするね」という返事。〝あれっ〟と……、彼女にとってはそれが有効だったのでしょう。また、主人は無口な人です。何かのやり取りの中、もっと気の利いたことを言って欲しいけど黙ってばかり。確かに何か言ってもらったところで納得するわけではないのですが…。お互いの価値観が違うのに、自分の価値観を押し付けようとするから苦しくなるのでしょう。
昨年、息子を病気で亡くしました。覚悟していたとは言え、悲しくてただ涙を流しました。この身体のどこにこんなに涙があるのかと驚くほど、毎日泣きました。今思えば、いろんな感情の涙でした。「可哀想」「仕方がない」「もっと~してあげれば」等々、悲しみや後悔、悔しさといった複雑な感情に支配され、どうすればいいのかわかりませんでした。
そんな時、住職さんに「ただ南無阿弥陀仏を称える」ことを勧められました。なぜか五臓六腑に六字が染みこんできた時、次のことばが目に飛び込んできたのです。
恋しくば南無阿弥陀仏を称うべし 我も六字の中にこそ住め(山内恵一郎)
これまで思い通りに過ごしてきたのかも知れません。ただ、恋しい息子の死を通して、お念仏の大悲のこころに触れて、少しずつですが、一つひとつ複雑な感情を消化できるようになったと思います。自分本位のものさしで生きてきた私にとって、これまで手を合わせてきたことは、ただ上辺だけのものでした。深い悲しみを通して見えてきたものは、いつも悲しみを背負って生きていた他人でした。すでに仏さまの六字の中に、私自身が住ませて頂いていたのです。
幼い時から、母や姉たちとお寺に足を運んでいました。何気なく見ていたお寺の屋根でしたが、なぜか今では、その存在の大きさに驚いています。お念仏の響きとともに、今まで見えなかったものが見えてきたようです。合掌
『阿弥陀経』の物語(Ⅴ)「浄土往生とは ~人と人とが塗れ合う穢土を生きる~」
―『教行信証』と現代(化身土巻⑪)―
周りに支えられ後押しされた舎利弗は、まさに浄土往生の道へと踏み出します。浄土往生の「往生」とは、浄土に向かって「往」く、そして「生」まれ変わるということです。具体的には、努力し成長して生まれ変わる(「再生」)、人と共に生まれ変わる(「共生」)、そして自らの生きた証が後の世にも永遠に生まれ変わる(「永生」)の三種の往生です。
これらの「往生」とは、現実の穢土から理想の浄土に向かって歩み出すと同時に、理想の浄土から現実の穢土に帰っていく、即ちすでに完成された浄土に照らされて未完成の穢土に立ち続ける歩みです。その唯一の〝手だて〟が、ただ念仏を称えることであり、浄土の阿弥陀仏より願われていることなのです。
それでは、具体的に未完成の穢土に立ち続けるとはどういうことでしょうか。たとえば、地域のコミュニティが失われつつある現代社会において、「人と交わるのが煩わしい」、「地域の問題には関わりたくない」等々、静かに自分の好きな事をして過ごしたいというのでしょうか。また、家族同士でも、いざ肝心なことをお願いしようとしても、「迷惑かな」「嫌がるだろうな」等と遠慮して、結局は自分で事を済ませてしまうというものです。それは、現実に流されたり抗ったりして、自分の立ち位置を見失ってしまいかねません。本来、人との人とのが呼応し響き合う関係であればこそ、「自分は何ができるのか」、「自分は何をしたいのか」等という問いかけのもと、本当の自分を誤魔化し繕うこと無く、正直な自らの声を聞いていくことだと思います。
「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ」(インド・ガンジー)
人間は、生命が終わると同時に新たに生まれたいという本来的な願いを具えていると思います。無論、死んだ後に輪廻転生してこの身が娑婆に再び生まれてくるというのではなく、有限のいのちの私が、三世・十方へと貫く無限のいのち(阿弥陀仏)に帰入(帰依)することです。それは、無限のいのちの中に入って消えてなくなるのではなく、たとえちっぽけな私ひとりでも、人と呼応し念仏を称えるその瞬間、この世全体を形づくるための掛け替えのない存在であることに目覚めることです。
舎利弗は、最終的に如来の信心を受けとめ、出世間から五濁悪世の世間に帰っていきました。人の欲望が渦巻く濁った穢土、そこにある避けられない問題を、舎利弗は決して先送りせず一日一日を必死に生きていくのです。その浄土往生のすがたが、念仏の声となって、今現在を生きている私たちを含め、永遠に後の人々を導いていくことになるのでしょう。
編集後記
父親の介護の時、親戚から介護の経験の有無によって、かけられる言葉が違った。一人は「いつもありがとうね」、一人は「じいちゃんを大事にしてや」と。
同居の嫁が、年老いた義母を買い物に連れて行く。リハビリのつもりで「少しでも運動」と言って、わざわざ遠く離れて駐車。それを知った実の娘(外へ嫁に出た)が「可哀想や」と非難する。
死別で母を見送る。外の実の娘は、通夜・葬儀と悲しみに暮れ、人前でも涙を流す。同居の嫁は人前では泣かない。七日参りを通して、徐々に涙がこぼれてくる。
みんな違って、みんないい。