仏教の教え、お念仏の中身をたずねるときに、私は「お陰様で」とか「支えられている」ということばを言います。それは具体的にどういうことでしょうか。
このことばはちょっと注意を要します。それは、自分の思い通りになったときの「お陰様や」でもなければ、一人で何もできない、たまたま誰かに何かを助けられて「支えられているわ……」という、そんな内容ではありません。仏教のいう、ことに念仏の「みんな(諸仏)に護られている」という概念は、先ずこの私自身の他者に対する接し方が問われています。すなわち、好き嫌いで他人を裁いたり、損か得かで都合の悪い人を排除しないということが前提にあります。どんな人でも私にとって関わりのある存在、そして何かを伝えてくれる存在であり、自らの分別心(善悪、上下、序列、勝負、好嫌、損得等々)によって決して排除する人、排除できる人はいない、という念仏の浄土観にもとづくものです。
人と人、人と環境が、お互いに呼応する浄土観の響き合う世界において、私自身がこの私を排除しない、こんな私をそのまま受け止めていける世界があったのだなぁ~、という感覚のなかに、はじめて「みんなに護られている」ということばが響いてくる瞬間があるのだと思います。ただそれも、再び日常に埋没して忘れ去ることがあるのでしょう。だから念仏を称え続けることが願われています。
私のおばさんは66歳の時に癌で亡くなりました。亡くなる一週間前に、連れ合いの住職と『阿弥陀経』を読み終え、次のような問いかけをしました。「この『阿弥陀経』に書かれている『恒河沙数諸仏(ごうがしゃしゅしょぶ)』って何やったけ?」と。住職は「ガンジス河の砂の数ほどの仏さんや」と応えました。するとおばは、「あー、これまで何も気づいていなかったわ。私はこんなにたくさんの仏さんに護られていたんやね。本当に多くの人々に支えられていたんやね」と言って、その一週間後に亡くなりました。自分の死期を感じ、これまでを振り返りながら自然と念仏がこぼれでる思いから発したことばだと思います。
日頃から、好き嫌いや損か得かの分別心によって、他者を排除し自分をも排除してしまう生活のなかでは、「みんなに護られている」ということばは、決して軽々に口に出せるものではないと思います。自らの分別心によって他人を排除している私、それは必ず、自己否定感や卑下する心、また慢心の心となって自分に反ってくることになります。他人を排除しない、そして自分を排除しない、それを実現することはとても困難ですが、少なくもそんな自分を見つめ直すことはできるはずです。そんな自分と対峙し続ける、だからこそ念仏を称え続けることが大切なのです。一声のただ念仏もうすその瞬間のなかに、「みんなに護られているのやね」という究極の救いのことばが輝いてくるのだと思います。