《子ども報恩講》
みんなで正信偈を唱和
した後は、紙芝居。
同じ阿弥陀さんのもと、
楽しい時間を過ごしました
「倶に向かうところ」
家を取り壊す事情から、仏壇終いをするご門徒と話し合った。「ご本尊(絵像)は残して下さい」と言うと、「子どもはお参りなんてしないと思う」という返事。それは結局、親が子どもを信頼していないということではないだろうか。
ある法話の席で、「自力」と「他力」の教えに触れた。終了後、一人の参詣者が歩み寄り、神妙な趣でこう唱えた。「もっと子どもを信頼してあげればよかった」と。ふとわが身を振り返る。心配するあまりついつい口を出したり、きちんと話し合わず単独行動に走ってしまう。それは、子どもを信頼せず、結果的に突き放してしまうことになりかねない。
親子関係に限らず、他人を信じるとはどういうことだろう。あなたを信じるといって、期待に応えてもらえないと失望したり、怒りを覚えることはないだろうか。信じるとは、自らの思い通りになるよう相手を信じるのではなく、たとえ失敗してどんな結果になっても、その人を丸ごと受け止め続けること。それはまさしく、その人ひとりを信じるというより、その人ひとりを通じて、誰一人排除のない、どんな人からも教えられ、周りと呼応する自分になっていくことだ。
子どものお参り云々という以前に、あなた自身が、呼応する世界、即ち念仏の響きに触れているのだろうか。どこまでも自力に縛られ絶対他力に委ねられず、目の前の相手と真向かいになれない自分ではないか。だから親子共々、念仏を称え同じ方向に倶に向かうご本尊が何よりも大事なのだ。
帰る処を求めて-心の種を蒔きながら- 安吉町 本田精志
高校二年の時、父親が脳梗塞で倒れ(五二歳)、その六年後に亡くなりました。長男だった私は、まだ二十歳という未熟なまま家を支えなければなりません。当初、田んぼを継ぐことが当たり前で、何の疑いもなく農業学校へ行くことが長男のお決まりのコースでした。ある先生に「お前、田んぼ(の仕事)、嫌いやろ」と見透かされながらも、気がつけば八十歳になります。
当時の農業は、様々な紆余曲折を経ながらも、少しでも多くの収穫量を伸ばすことに専念したものでした。肥沃な土壌を育てるために、周りから「肥料設計(窒素、リン酸、カリ)を農学校で学んで来なさい」と言われてきました。
昭和三十年のいもち病による大凶作があり、それをきっかけに農薬の改良。また、冷害に強く多収量となる品種を求めて、東北地方の種(十和田、藤坂。レイメイ等)を買い求めました。また、能登からの「移動班」(住みこみで農作業を手伝って下さる女性)のおかげもあって、北陸では多くの米が収穫できていました。ことにこの辺は「早場米」と言われ、はざかい期に食料が足りなくなる八月にかけて収穫したものです。関東地方は梅雨が終わらなければ水はなく、東北地方はため池を使用した農作業です。この地は、先人の七ヶ用水の整備のお陰で水が豊富なため「早場米」が可能となり、日本の食糧事情を支えてきたのでした。
振り返れば、自分は何をしてきたのか、何ができたのかわかりません。ただ、春に種を蒔き、芽が出て、花が咲き、実を結び、また種を蒔く。そんな大自然のサイクルの中で、本当に落ち着く処、帰る処を探し求めていたように思います。
二年前、百二歳の母を送りました。そして一昨年の暮れ、突然、妻を失いました。ふと外へ出かけ、家へ帰る途中の事故でした。今でも「父ちゃん、帰りたい」と呼びかけているようです。
「何しても 一人ゆく 八十路あられ」
農作業を終えて家に帰っても誰もいません。息子夫婦は近くにいて本当によく支えてくれますが、家で迎えてくれる人、そこで叱ってくれる人がいないため、なかなか帰ったという気持ちになれないのです。恥ずかしながら、相変わらず女々しく甲斐性のない生活を送っている始末です。周りから「もっと前向きにならないと……」と言われますが、帰る処が見当たらない、これからどこへ向かって生きていけばいいのかわからない、というのが正直な気持ちです。
近頃、何もしない、何も考えない中で、ただ念仏を称える時、これも種を蒔くことなのかなとふと思うことがあります。こんな私でも種を蒔いて何かを残し、多くの人たちに喜んでほしい。妻や母をはじめ、多くの方々が大事なものを私に残して下さったのだから、ただ念仏を称えつつ、少しでも心の種を蒔いて過ごせたらと思います。
『阿弥陀経』の物語(Ⅲ)「恒沙の諸仏の証護の正意なり」
―『教行信証』と現代(化身土巻⑩)―
「掃けば散り 払えばまたも塵積もる 人の心も庭の落ち葉も」(作者不明)。
秋も深まる頃、当寺の裏庭の欅の葉がひっ切りなしに落ちてきます。次から次へと沸いてくるわが身の煩悩のごとく、落ち葉は容赦なく降ってきます。今年から、その落ち葉を集めて腐葉土づくり。枯れることによって土に帰り、その土壌が新たな生命を宿らせる〝いのち〟の循環になんとも言えない愛しさを覚えるときがあります。
いつも元気なあるご門徒のおばあさんは、年に一度だけ内報恩講の時にお会いします。毎年、「相変わらずお元気で若いですね」と言うと、いつも嬉しそうにしていました。ところが今年の報恩講に彼女の姿はありません。娘さんに尋ねると、「病気をして何だか老いぼれた姿を見せたくないのよ」とのこと。私は言いました。「元気な人でも、いずれは老いていく真実の姿を見せてほしかったわ(笑)」と。さらに「来年は老いぼれた姿を笑顔で見せてね」と苦笑いする娘さんに言付けました。
『阿弥陀経』では、釈尊が仏弟子・舎利弗に次のように問いかけます。「舎利弗よ、どうして『阿弥陀経』が、あらゆる人々に念じ護られている経だと思いますか?」。黙っている舎利弗に対して釈尊は、「この世でたったひとり、弥陀の名が聞こえず、『あなたを絶対に捨てずいつも見護っていますよ』という弥陀・諸仏の声を遮っているものがいる。それは、懸命に自力の行を積んで自分は正しいと思い込んでいる舎利弗、あなた自身ではなかったのですか」と問いかけています。
老い病んでいく現実の身にただ流されるのではなく、また抗うのではない。あるがままの深い悲しみの中に大事な教えに出あい、同じように苦悩を乗りこえていった人々の声を聞いていく。そこに「数え切れない人々(諸仏)の、後押して支える(証護)の正しい意なり」のごとく、平等に浄土へ帰っていく人々の念仏の声に護られて、この私自身が目覚め(「帰依仏」)、教えに出あい(「帰依法」)、人々と共感していく(「帰依僧」)、いわゆる絶対他力の「帰依三宝」が願われているのです。
秋が終わり冬が来ます。春になると雪はとけて水になります。すべてものは移り変わり変化して止むことはありません。活き活きと茂っていた欅の葉も枯れ果て、その一枚一枚が土に帰り、また腐葉土となって新たな生命を育む一助となります。
私たち人間も然り。老いぼれて死んで終わりではありません。誰もが老いていく姿から世の無常を知らせ、枯れ果て死んでいく悲しみから、平等に次世代へと新たな生命を息吹かせるのです。永遠のいのちの循環をあらわす〝無量寿〟に身も心も委ねていく、即ち阿弥陀仏に手を合わせ念仏を称えれば、たとえ枯れ葉一枚のようなちっぽけな自分でも、「私は私でよかったなぁ~」と、これまでの一つひとつの行程がよき思い出となって輝きを放っていることに目覚めていけるのです。
編集後記
昨年の暮れ、島根県の義父が還帰した。令和六年は、元旦・震災時の親戚坊守に始まり、実父を含め、六人の方のお骨を拾った。〝死〟は〝生〟の完結した姿であり、それぞれの個性あふれる人生を終えた姿が、みんな同じ白色のお骨となって残るのだ。
老若男女、有名かお金持ちか、偉いか長寿かなどに関わらず、亡き人があの世で残せるものは何もない。ただ人間死んで残るものは、子や友をはじめ、他者に与えたものだけなのだ。
お骨を拾う。故人から頂いたものは何か、その一大事を蘇らせる念仏の声が響いてくる。