浄土寺について

石川県白山市の浄土寺を紹介します。

浄土寺縁起
法宝物紹介
年間行事

浄土寺縁起

白山市手取川の扇状地に位置する浄土寺は、釈了海、俗名大窪源左衛門尉家長によって、1551年(天文20年)に創建されました。

その頃は、本願寺第八代蓮如上人(1415~1499年)の布教活動の影響もあり、信仰心の篤い一向宗の信徒による一揆が高まりをみせていました。その結果、「百姓の持ちたる国」が100年余りもの長きに亘って続いたのです。

源左衛門(祖父は京都山城の愛宕群嵯峨の国の出身)は手取川扇状地一帯の右岸の地四万石を領有し、河原組八千騎を率いて、一向一揆の一端を担った安吉城の城主でした。しかし、この世の無常を痛感し、自らの罪を自覚した源左衛門は、城及び一切の権限を譲り、宗祖親鸞聖人(1173~1268年)の極悪深重の救いを説く真宗念仏の教えに帰依することになったのです。

その後は、浄土院大納言郷(京都左京区浄土寺在所)の手続きにより、本願寺第十代証如上人のもと、「浄土寺」の寺号を受けて、真宗念仏の教えを説く聞法道場として現在に至ってます。

安吉城跡地

安吉町の山島公民館の前に、安吉城址の石碑が建っている。領地四万石の安吉城本丸のあった場所で、城下町を形成していた。加賀の一向一揆では、信仰心の厚いこの土地の人々も参戦し、「百姓の持ちたる国」を支えていた。

安吉城跡地

法宝物紹介

座像の阿弥陀如来

天文19年(1550年)、大窪源左衛門家長が城主の座を捨て京都で出家した際、後奈良天皇より賜ったものである。
平成31年、奈良国立博物館の主任研究員の方より、彫刻の特徴や技法から、
平安中期(10世紀の終わりから11世紀の初め)のものと鑑定された。柔らかい表情が何とも言えぬ安らぎを感じさせる仏像である。

座像の阿弥陀如来

乾漆阿弥陀如来

中国伝来の脱活乾漆作りという技法と言われ、組み立てた木心の周りを粘土で埋めて型を造り、十数枚の麻布を漆で張り重ねる。乾燥したら内部の粘土を抜き取り空洞にして創られる為、非常に軽いのが特徴。
無銘のため製作年は不明であるが、精悍な顔立ちで凜々しさが感じられる仏像である。

乾漆阿弥陀如来

蓮如上人御真筆御文掛軸

蓮如上人の五帖目九通の御文で、松任市(現 白山市)重要文化財指定の御真筆である。
 蓮如上人(1415~1499年)が84歳の時、大阪坊舎で書かれたものである。ただひたすら「南無阿弥陀仏」の六文字名号をたのみ、信心決定を促す御文は、病床の中で命終の近きことを意識した、必死の教化であった。翌年明応8年、上人は85年の生涯を終える。

蓮如上人御真筆御文掛軸

糠仏

小さな一粒の糠(籾殻)方割りの中に、阿弥陀・観音・勢至の三尊の仏像が刻み込まれている。脇の勢至菩薩が巻物を揚げられているお姿も、虫眼鏡でやっと見ることのできる大きさである。
大窪源左衛門が戦場に行く際、守り本尊として兜の中に奉持していた。
ご門徒の皆様からも目が達者で見えるうちに、といって慕われ続けている。

糠仏/拡大拡大
糠仏/全体全体
  • 本願寺十代証如上人御真筆の四帖目の御文
  • 東本願寺十二代教如上人御自画の御影
    ならびに聖人文類御文の御讃附掛軸
  • 東本願寺十二代教如上人御真筆の御書

    本願寺東西分派の抗争の際、長男の教如を後押ししていた源左衛門に、感謝の意で贈られた。御自画と御書は、共に教如上人より賜る。御書には、「加州石川郡内六十七村尼人道志衆中」とある。

  • 蓮如上人御真筆 六字の御名号掛軸その他数点

年間行事

1月1日 修正会
3月21日頃 彼岸勤め
3月21~23日 春の永代経
4月25日 蓮如忌
7月13~15日 法宝物虫干法要
8月13~15日 盆会
8月18・19日 夏の永代経
9月23日頃 彼岸勤め
10月31日・11月1日 報恩講
11月28日 宗祖御正忌
12月31日 除夜絵